昭和40年08月18日 朝の御理解



 今日も一日、様々な事を通して、信心の稽古をさして頂く。ただ漠然と信心の稽古をさして頂こうだけではいけんから、どういう姿勢、どういう構えを持ってその稽古をさせて頂くかというそのまず構えが大事、ただ漠然と朝お参りをさして頂いて、朝御祈念にお参りさして頂いておる。それだけで信心の稽古が出来たと思い、これからが稽古である。いうなら朝の御祈念にお参りして来るのは、今日から只今から稽古をさして頂く姿勢について、構えについて、というものが出来なければ稽古は出来んと思う。ね。
 例えて言うなら、剣道なら剣道、の稽古するでもです、やはり構えを一つ見れば分かると言われる。構え。ねお習字の稽古をさして頂くでも、まず姿勢を正さなければ、ね、いきなりさんぱちな姿勢ではいけん。今日も信心の稽古をさして頂くと。どういう構えを持って信心の稽古をするか、その構えが出来ておるか、いつもこれは自分の信心の場合の姿勢というものを、正して行かなければならんのであり、その構えをです、これで良いかということを反省していかなければいけないと思う。
 で、そのどういうような構えが姿勢が出来ておるだろうか。東京の、銀座に銀座教会に湯川先生と言う方がおられる。直接お会いした事も話を聞いた事もないですけれども、まあ間接として頂いたお話の中に、やはり、戦災に会われた、時にその自分の教会ということは、もうほとんど祈らなかった願わなかった。もうただただ東京の復興を祈らして頂いたと言われておるそうです。
 東京の復興がだんだん出来ていくにしたがって、自分の教会も、以前に増しての立派な教会が出来、大変ないわば、御ヒレイを頂いておられている。して見るとこの私共がおかげを受けるという事は、自分の事を、一生懸命願うとか祈るとかという事だ、だけでこのからおかげを頂くのですけれども、それよりも、もっと尊いおかげの頂き方があるという事が分かるですね。
 神様に喜んで頂くようなおかげの、頂き方があるということが分かるじゃないですか。それに私共はどうでしょうか、自分の事だけ、自分の一家の事だけ、自分の子供の事、事だけ孫の事だけ、ね、それを例えば繰り返し一生懸命に祈らせて頂いて、それが例えば成就したところでです。それを私は、どういうことでしょうか、それが成就したところでです、おかげを頂きまして、子供が孫が今日も無事なおかげを頂きましたと、こうお礼を申し上げただけでは、どういうことになりますでしょうか。
 果たして神様は喜んで下さるでしょうか。どうぞ私のお店で、お店がどうぞ繁盛いたしますようにと、私の家族の者がどうぞ、今日も一日ケガ過ちがございませんようにと、ということ言うことを、祈らしてもらい願わしてもろうて、一日をを過ごさせて頂いた時です。今日も無事に怪我過ちもございませずに、有り難うございましたと言うて、お礼を申し上げる事が果たして、どれほど神様に喜んで頂く事だろうか。
 ここから一歩も出ないで信心を何十年続けておる人があるんです。ね。自分達の願いと言うものがです、成就する。で今日も商売繁盛のおかげを頂きますように。家族中の者が無事で親や子や孫がどうぞ今日もおかげを頂きますようにどのように切実に願う。その為にわざわざ朝の御祈念にもお参りさして頂いてもです。今祈り願わしてもろうて、そんなそのおかげを今日一日頂きましてもです。
 その事、今日も大変な商売の繁盛のおかげを頂きまして、有り難うございましたと言うてお礼を申し上げから、果たして神様はどれだけ喜んで下さるだろうか。喜んでおるのはおかげを受けた者だけじゃないでしょうか。ね。神様が全然喜んで下さらんこともないでしょうけれども、それでは私は大した信心じゃない、大した信心の成長じゃない、そういう構えで朝の御祈念にお参りしたって、大したそれは構えじゃないと思う。
 信心とはそうした自分の難儀なら自分の難儀だけの事を願うだけ、いわゆる頼むだけが信心じゃあない。そういう意味のジセイカン。だけが信心じゃあない。いや、神様に喜んで頂くような信心。先日誰だって椛目のご造営の事を願われん方ないでしょう。なっかはちょっと大きくなりますとですね。あたくしの事だけじゃない、自分の事ではない自分方一軒のことだけじゃない。
 どうぞご造営が無事に、スム‐ズにしかも神様の心に叶うような、立派なご造営が出来ます事を、まあ椛目にご信心を頂いておられる方で、一番ぐちに祈られない方はなかろうと私は思うんです。どうですか祈られよるでしょうが、ね、これは私はまあ祈られておると思うですね。ところがです。自分の事としての祈りというものは中々出来んもんです。切実さがないです。ね。
 だからその自分に祈りというものを分析してみなきゃいけん。先日またそのいろいろそのご造営の事お願いさして頂きよりましたらです、井上組という請け負っております、建設屋さんなんですね。そこのご主人だけではなくてです、設計士の方大工さん、そういう、大工さん達の一人一人の事を神様は下さるんです。ね。一人一人例えば職人さん達の上にもです。ね。その人のまあ家庭家族の事まで神様は願えと仰るです。
 子供を中心としての事じゃないですね。そしてみるとこれは久富組の事も願わんならん、久富建設の事まで言わんならん。しかも久冨建設久冨社長の久冨みのるさんとか久冨正義さんとかというかだけのことじゃいかん。そこのおかげを頂いておる土方なら土方に見えておられる、人夫の方達の一人一人の事の上までも、願わにゃいかん。しかもその人だけの事じゃない、その人の家族の事までもいうなら願わなければいけない。
 今日はでろうと思いよったら、家内がどうだから子供がどうだからと言うて、それにそうなっちゃいけんとこういうことです。ね。
 私共がその例えば祈り、自分の事には非常に綿密なもんだけれどもです。ね。ただんなら銀座の湯川先生がです。ただ東京の復興を祈られたと、祈り抜かれたということはです。その難儀について私は知る事も出来んのですけれども、恐らく綿密な祈りが成されたに違いないとこう思うですね。陰から祈るとか後ろから祈るとか、いわゆる後ろから後ろ祈念をするとか、陰から祈るとか黙って祈るとかいうふうに申しますよね。
 その黙って祈る陰から祈ると、後ろから祈る、その祈っておるその内容というものがです。ね。ほんとに神様に聞き届けて頂けれるような綿密な祈りが願いがです、出来ていかなければいけないと私は思う。どうぞ今日一日私の所の商売が繁盛致しますように、どうぞ親や子や孫がと切実に願う。いうなら事実、例えば過ごさして頂いてから、「ほんとに万事におかげを頂きました商売も繁盛のおかげを頂きました」と言うて。
 おかげを頂いてそのお礼を申し上げたことが果たしてどれほど、神様のお喜びを頂くことが出来るだろうかと。ね、おかげを頂いてお礼を申し上げて、それが果たしてどれだけ神様が喜んで頂くところのおかげが頂けれるだろうかと。ところがです。今皆さんの一人一人が只今申しますようにです。ね、皆さんのんなら門内なら門内のこと、町の事、同業者の事、ね、椛目の御信心の稽古をなさっておられる方は。
 椛目の広前の前の事、いうなら只今ではご造営の事、そのことが切実にです。祈り願われそして、その祈りが願いがです。今日もこういう形において成就した事をです。例えばまあ夜なら夜の御祈念に、その一つ一つを神様にお礼を申し上げることになったら、どういうことで、になるでしょうか。神様は喜んでくださらんはずはないですね。皆さん例えば銀行なんかに行かれますとです。
 銀行の窓口に参りました。その窓口の向こうにあの沢山のお金をこう積み上げてから、いつも数えござる。ね。あちらにその銀行に預金をしておる人がですね。通帳を持ってハンコさえ持って行きゃその金をどれだけでももらえる事になとるとじゃんね。はあ向こうんほうではもう、そのもう窓の向こうには沢山の金が積み上げてある。だからハンコを持って行っただけでは下さらんでしょうが、預金しとかなければ。ね。
 蓄えというものは余分がなかなければ蓄えは出来ません。ね、蓄えというものは余分がなかなければ蓄えは出来んのです。今日私が申しております事はね、その蓄えの事を言うておるのです。自分だけの事では蓄えは出来ません。ね。余分がなからなければ人の事は祈れません。自分の信心が段々ユトリが出来て来るようになりますとです。ね、それこそ人の事は祈られます。自分以外の事が切実に祈れます。
 (おいもならぬこのことを?)自分の事として、本気で祈る事ができます。ね、世界真の平和も、ね、世界総氏子の助かりも、自分の信心がで、出来て参りますとそれを、自分の事として、自分の願わくばならぬ事、まあいうなら実感を持って祈る事が出来ます。この人におかげを頂いて、またはその人のためにです詫び、願い、おすがりをさして頂くということがです。
 今日もおかげを頂きましてと言う反映が広ければ広いほど、私はこれが預金になっていくもんだと私は思うんです。ね、そういう預金もしっかりさして頂く所の信心、ね、それに真心のハンコ持ってさえ行けば、いよいよ自分自身が必要な時に、なんぼでも頂ける事になるのじゃないでしょうか。ね。
 なんぼでも、自分が知らずに借りにいくのじゃない、引き出して、もう当然頂いた物を引き出しに行ったとの、おかげを頂かにゃいかん。借る事だぁけ、ね、余分な預金もせずしてから、借る事だけしたんでは、利払いのほうが大変、皆さんそうでしょうが。ですから今日は一つ信心の構えをです。少し、ね、もう少しがっちりと、堂々と大きく構えなければいけません。
 教会に例えていうならば皆さん、椛目のご造営ならご造営の事だぁけを祈っときゃいいんですよ。椛目のご造営ならご造営の事だぁけを願っときゃいいんですよ。椛目にご縁を頂いとる信者さんだーけのこと事願っときゃいいのですよ。その中に皆さんの、家もありゃ皆さんの家庭もあるのですから、皆さん自身もその中にあるのですから。ね。東京のいわゆる銀座湯川、湯川先生がです。
 なるほど自分のところは、戦災で潰れてしまったけれども、そのことは願った事が無い。ただただ願われた事は、東京の復興だけだった。それで前を勝る程の、復興ができられたということは、銀座教会がやはり、東京の大東京の中に、やはり銀座教会の、あるということが分かるでしょうが、しかも「どうぞ、銀座教会の発展を。」、と言うて、願っておかげを頂かれたところでですたい、それが果たして、どれだけ神様のお喜びに、なることかということ。ね。
 東京中の事をしっかり、自分の事として祈られた時にです。ね。私はそう言う様な願いを神様は喜んで下さるのじゃなかろうか。いやそういう願いが私は預金になるのじゃなかろうか。余分余裕がなからなければならんのです。尽きるだけならねすぐに漏れるって、陰から祈る後ろから祈る。誰も知らんけれども祈っておる。その祈るには条件が要る。「真心とは条件がないことです。
 体を惜しみはせんことです」とこう仰る。ね。そういう真心で、しかも余裕のあるそういう大きな祈り願いというのがなされていく時です。それが神様がお喜び頂けれるところの信心ともなるのですから、それが徳になっていかんはずがありません。自分の事をいくら願い、自分の事をいくらおかげを頂き致しましても、自分の事だけを願う小さい信心では、いわば考えてみてごらんなさい、果たしてどれだけ神様が喜びなさるじゃろうかということですたい、ね。
 ね、出来るだけ一つその神様に喜んで頂けれるような信心ということは、神様が喜んで頂けれるような祈りのいわば構えというものがです、まず出来なきゃいけん。今日はそこんとこにいよいよ焦点を置いてです。ね。しっかり祈らせて頂かれるおかげを頂かにゃいけんと私は思う。もう大きい、そんなに漠然としたというふうでなくてです。その事が自分の事として願われるところの信心。ね。
 例え道連れいの人でもね、「袖すりあうも多少の縁」というのですから、まあその多少の縁を通して、その人の事を祈らしてもらう、願わしてもらうと、いったような信心。そういう信心になって行くことを、実は神様は喜んで下さるんじゃなかろうか、1から10までが、もう自分の事だけ、自分の一家の事だけが、いくら切実に一生懸命に、祈れ願われたところで、よしそれがおかげになったところで、それを果たして、神様はどれだけ喜んで下さるか。ね。
 あの氏子はもう自分だけの事ではない、人の事まで、他の氏子信心のない氏子の事まで切実に、ただまあ「どうぞご造営がご成就になりますように」というだけじゃいかんちゅうことが、先程の事で分かるでしょうが、ね、例えば井上組なら井上組のです、ね。端々に働いてござる一職人さん達や土方さん達の事の上までです。いやその家族の事まで、とこう綿密にずうっと祈って行く。ね。ずうっと祈って行くということがずうっと信心が広がって行くということなんですからね。
   おかげ頂かなければいけません。